コピペ
2012年04月20日
文章を書くということ(文脈・文の流れを含め、文を創造するという意味)と、文を貼り付ける、ということは、当然ながら別種の作業である。
たとえば、こうして毒にも薬にもならないような文章を私は書いているわけだが、とはいっても一時創作なのである。
しかし、コピー&ペーストというのは、単なる作業でしかない。
コピペという作業と、文章を書く(タイプする)という創作とは、まったく違うものなのである。
最近、論文をコピペでちょっと変えて仕上げるという作業が流行っているそうだが、嘆かわしい限りだ。
大切なのは、文章の流れを生み出す脳内における文字列の結合であって、答えを出すということではない。
つまり、論文をコピペで仕上げるというのは、まったく意味がないのである。
二重の意味で時間の無駄といっていい。
現在、知的文化のパクリが問題となっているが、コピペが盛んな層ほどこの意識が薄くなっていくのは、想像に難くないだろう。
それで単位は取れるかもしれないが、もっと大切なものを失っているのに気付かないのは、嘆かわしい限りだ。
また、それで学生を名乗るのはおこがましい。楽生とでも名乗って欲しい。
Posted by 天啓 at
11:32
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か・ま・く・ら
2012年04月12日
ぐっすり眠れる理想の枕を探すのは、なかなか難しいものです。
眠る、ということ自体、自分を無防備にすることですから、そのお供を選ぶにあたって、細心の注意を払うのは当然というべきものでしょう。
こそばゆく後ろ髪が引かれる感じの残る枕もあれば、夢にストーンという感じで落ちていくような枕もあり、千差万別、常世の夢も枕次第というイメージがあります(どんなやねんw)。
枕というのは、古来より存在するもので、またであるからこそ、親しみやすく、多くの人々を幽境の地へと誘ってきました。
幽明境を異にする、ではないですが、枕というものは、夢と現の境目を表すものとして親しまれているわけです。
枕というのは、夢と頭とをつなげるものとして、不思議なイメージとともに、これからも使用され続けることでしょう。
さて、そんな枕への信仰はちょっと置いておきまして。
安眠枕と題してあるものが、ほんとうに安眠かどうかは、実際寝てみないとどうにもわかりません。
しかし、考えてみれば枕というのは、一日の4分の一から3分の一は請け負っているのですから、しかるべき投資をしたいものです。
枕ひとつで劇的に身体の調子が変わった、ということはざらにあることです。
理想の枕を探し当てたいものですね。
眠る、ということ自体、自分を無防備にすることですから、そのお供を選ぶにあたって、細心の注意を払うのは当然というべきものでしょう。
こそばゆく後ろ髪が引かれる感じの残る枕もあれば、夢にストーンという感じで落ちていくような枕もあり、千差万別、常世の夢も枕次第というイメージがあります(どんなやねんw)。
枕というのは、古来より存在するもので、またであるからこそ、親しみやすく、多くの人々を幽境の地へと誘ってきました。
幽明境を異にする、ではないですが、枕というものは、夢と現の境目を表すものとして親しまれているわけです。
枕というのは、夢と頭とをつなげるものとして、不思議なイメージとともに、これからも使用され続けることでしょう。
さて、そんな枕への信仰はちょっと置いておきまして。
安眠枕と題してあるものが、ほんとうに安眠かどうかは、実際寝てみないとどうにもわかりません。
しかし、考えてみれば枕というのは、一日の4分の一から3分の一は請け負っているのですから、しかるべき投資をしたいものです。
枕ひとつで劇的に身体の調子が変わった、ということはざらにあることです。
理想の枕を探し当てたいものですね。
Posted by 天啓 at
11:09
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和風のたまくら
2012年04月12日
日本文化と和風文化の乖離がいい意味で進んでいると感じる今日この頃。
基本的には、日本文化の中に和風文化が納まっている、というイメージなのだが、和風文化はサブカルチャーにも適合性が高い。
いわゆる、CoolJapanというやつである。
スタイリッシュなデザインで、従来の和風を崩した作品というのは、何やら異常に格好よく感じさせるものだ。
ようするに、文化という広すぎる枠組みの中から、センスで選ばれるようなものへと抜け出たのが、和風文化といえる。
センスというのは実に厄介な尺度であって、測ることもできなければ、それだけ信じることもなかなか難しい。
実にはた迷惑な存在なのである。
が、それがあるから、さまざまな出来事を美しいと思えたり、感動できたりするのだから、まったくもって始末におえない。
ただ、センスというのは、磨いていけば光るものであることは間違えない。
センスに恵まれていなくとも、勉強すれば、対策と応用というやつで、ある程度知識でセンスを出現させることはできる。
センスというのは、自分のセンスだけで見出すのは難しいものだ。
つまり、鐘をつくようなもので、センスの鐘を打ち鳴らすのは、やはりいい棒でないと、いい音は鳴らないのである。
話が逸れたが、つまるところ、最近の和風文化というものは、勢いよくいい音で鳴るものだなあ、と思うのである。
Posted by 天啓 at
11:09
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